安岡章太郎 「悪い仲間」「陰気な愉しみ」 ――― 第29回(昭和28年)芥川賞受賞作品
今回の芥川賞作品の読書は、律儀にも年代を追って順に読むようにしている。
しかし、安岡章太郎の「ガラスの靴」(第25回(昭和26年)芥川賞候補作品)だけは、我慢しきれなくて先に読んでしまった。私がこのブログを始める前のことだ。
それというのも、安岡章太郎がどのような作家であるかをネットで調べて行くうちに、「ガラスの靴」の一節を読んでしまったからだ。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~soulp/shoyas.htm
どうであろう、この言語感覚。たちまち私はくらくらと目眩を起こした。「神の文章」―――その言葉に、間違いは無いと思った。
私はその時読んでいた小説の読書を中断して、「ガラスの靴」を読んだ。残念ながら、奇をてらったような比喩表現が所々に目に付いて、心の底から楽しめなかった。しかし、安岡作品の持つ独自の感性、独自の感覚は、私の心を大いに魅了した。
この「ガラスの靴」にせよ、今回ご紹介する「悪い仲間」や「陰気な愉しみ」にせよ、これらの作品のテーマには一つの大きな共通点がある。
それは、「劣等感」だ。
人間の持つ最も大きな劣等感とは、何であろう?
それは、「異性にモテないこと」ではないだろうか。
この「異性にモテないこと」という劣等感は、他の分野でどれほど頑張って大きな成果を収めることが出来たとしても、それで決して穴埋めできるようなものではないと思う。「異性にモテない」ということは、ある意味『オス(メス)として生れてきた自分に価値がない』ということと同じだからだ。自分の存在を否定されているのと、同じようなことだからだ。
この「異性にモテない」という劣等感は人間の心に根深く潜んでいて、事ある毎に本人はそれを意識させられる。その度に「自分はダメだ」と自分の存在全体を否定してしまい、「その証拠に、自分のこんな所もダメだ」と、他の劣等感を誘発することすらある。こうして異性にモテない人たちは、自分の身の回りのあらゆることに対して、強い劣等感を抱くようになってくる。
私が読んだ安岡作品から想像する限り、安岡氏は相当モテなかったのではないかと思われる。作品中の主人公たちは、日々の生活の中で些細なことにも敏感に反応してしまう。それによって、主人公たちは自分の劣等感を思い知らされたり、被害妄想を募らせたりしてしまう。確かに、安岡氏は病弱であった。独立して働けるだけの生活人にもなりきれなかった。だがそれらの劣等意識以上に、異性にモテなかったことが、安岡氏の劣等感を大いに駆り立てたようだ。
「悪い仲間」は、戦前に大学生であった安岡氏自身を主人公としている。
大学の夏休み、フランス語学校でいつも自分が座っている席に、藤井高麗彦という男が座っていた。そのふてぶてしい態度に「僕」は反感を覚えた。しかし、帰りの電車で話が合ったことから、「僕」は藤井と急速に仲を深める。藤井は「僕」に数々の悪い遊びを教えた。食い逃げ、盗み、のぞき見・・・。ふてぶてしいまでに大胆であり、そして「僕」と違って女を知っている藤井に対して、「僕」は強い憧れを抱くようになった。「僕」は徹底して藤井の行動の真似をした。
夏休みが終わって藤井が京都へ戻ると、「僕」は大学の親友、倉田と派手に遊ぶようになった。それまでの童貞じみた遊びを止めてしまい、「僕」は藤井から教わったことを、倉田に教え込むことによって、快感を覚えるようになった。
しかし、ある日突然、藤井が「僕」と倉田のところへやって来る。倉田が藤井を知ったことで、「僕」が藤井の真似をしていたに過ぎなかったことが倉田にバレてしまう。倉田を何とか見返してやろうと思った「僕」は、「切り札」として「河向うの私娼窟」(永井荷風が「濹東綺譚」で描いた、東向島の売春街「玉の井」)に二人を連れて行った。しかし「僕」だけ警官に捕まってしまい、かえって仲間内での地位を失墜させてしまった。
藤井が再び京都に帰ってから、「僕」と倉田はそろって藤井に手紙を送りあった。そして、少しでも藤井に好かれようと、互いに懸命に競い合った。しかし、そんな「僕」たちの周囲で、日本は戦争に向かい始めていた。怠けているような学生たちは、憲兵に見つけられると、しょっ引かれるようになった。
そんな中、藤井は学校から退学を命じられてしまう。そして、故郷の朝鮮へ帰ることになってしまった。それを知った僕の心境は、大いに変わってしまった。「僕」は、彼のようにはなるまいと思うようになった―――
この作品の主人公「僕」は、心に劣等感を抱いている。自分には度胸が無い、女を知らない・・・。それが藤井という男の真似をすることによって、自分が劣等感を克服した別の人間に生まれ変われると信じたのだろう。だがしかし、生まれ変われるはずの「別の人間」というのは、覚めた目で見れば、大した人間では無かった。
こういうことは、おそらく誰もが経験することでは無いだろうか。自分の劣等感を埋めようと、必死に違う人間になろうとする。そして、少しでも優越感を感じようと、下らないことで意地を張り合ったりする。その思いは、本能的で直感的なものだ。そこには冷静な視点が欠けている。だがしかし、人間はいつも冷静に自分の行動を見つめることは出来ないものだ。他人の眼からすれば馬鹿げたことを、変に真面目になって取り組んでいることは、誰にだってあるように思う。
「陰気な愉しみ」は、戦後になってからの安岡氏がモデルとなっている。
病気になって軍隊から離脱した「私」は、それだけの理由で役所から災害給与という名目で金をもらうことが出来る。大して働いてもいないのに金を受け取っている自分が、「私」はとてもやましい存在に思えた。それでも「私」は、自ら役所に金をもらいに行くことを止めようとしない。それが「私」の「陰気な愉しみ」だった―――
この作品では、劣等感に苛まれる主人公の妄想や、下らないことで優越感を見出そうとする卑しさが全面に描かれている。
この小説を読んでふと気付いたのは、「幸せ恐怖症」というべき性癖だ。普段から多大なる劣等感を抱いている人は、自分が何らかの幸運に恵まれそうになった時、「いや、自分はそういう幸運に恵まれるような人間じゃない」と思って、それを避けてしまう。幸運だと思ってすがりついたことが、自分を裏切って不幸を導くかもしれないからだ。それだったら、最初から幸運だと思ったことに近づかない方がいい、そうすれば自分を傷つけずに済む、ということだ。むしろ、自分が不幸であることを再確認している方が、かえって自分をそれ以上に傷つけない、という訳だ。
主人公の「陰気な愉しみ」とは、こういう不幸の再確認のことかもしれない。
しかし、安岡章太郎の「ガラスの靴」(第25回(昭和26年)芥川賞候補作品)だけは、我慢しきれなくて先に読んでしまった。私がこのブログを始める前のことだ。
それというのも、安岡章太郎がどのような作家であるかをネットで調べて行くうちに、「ガラスの靴」の一節を読んでしまったからだ。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~soulp/shoyas.htm
どうであろう、この言語感覚。たちまち私はくらくらと目眩を起こした。「神の文章」―――その言葉に、間違いは無いと思った。
私はその時読んでいた小説の読書を中断して、「ガラスの靴」を読んだ。残念ながら、奇をてらったような比喩表現が所々に目に付いて、心の底から楽しめなかった。しかし、安岡作品の持つ独自の感性、独自の感覚は、私の心を大いに魅了した。
この「ガラスの靴」にせよ、今回ご紹介する「悪い仲間」や「陰気な愉しみ」にせよ、これらの作品のテーマには一つの大きな共通点がある。
それは、「劣等感」だ。
人間の持つ最も大きな劣等感とは、何であろう?
それは、「異性にモテないこと」ではないだろうか。
この「異性にモテないこと」という劣等感は、他の分野でどれほど頑張って大きな成果を収めることが出来たとしても、それで決して穴埋めできるようなものではないと思う。「異性にモテない」ということは、ある意味『オス(メス)として生れてきた自分に価値がない』ということと同じだからだ。自分の存在を否定されているのと、同じようなことだからだ。
この「異性にモテない」という劣等感は人間の心に根深く潜んでいて、事ある毎に本人はそれを意識させられる。その度に「自分はダメだ」と自分の存在全体を否定してしまい、「その証拠に、自分のこんな所もダメだ」と、他の劣等感を誘発することすらある。こうして異性にモテない人たちは、自分の身の回りのあらゆることに対して、強い劣等感を抱くようになってくる。
私が読んだ安岡作品から想像する限り、安岡氏は相当モテなかったのではないかと思われる。作品中の主人公たちは、日々の生活の中で些細なことにも敏感に反応してしまう。それによって、主人公たちは自分の劣等感を思い知らされたり、被害妄想を募らせたりしてしまう。確かに、安岡氏は病弱であった。独立して働けるだけの生活人にもなりきれなかった。だがそれらの劣等意識以上に、異性にモテなかったことが、安岡氏の劣等感を大いに駆り立てたようだ。
「悪い仲間」は、戦前に大学生であった安岡氏自身を主人公としている。
大学の夏休み、フランス語学校でいつも自分が座っている席に、藤井高麗彦という男が座っていた。そのふてぶてしい態度に「僕」は反感を覚えた。しかし、帰りの電車で話が合ったことから、「僕」は藤井と急速に仲を深める。藤井は「僕」に数々の悪い遊びを教えた。食い逃げ、盗み、のぞき見・・・。ふてぶてしいまでに大胆であり、そして「僕」と違って女を知っている藤井に対して、「僕」は強い憧れを抱くようになった。「僕」は徹底して藤井の行動の真似をした。
夏休みが終わって藤井が京都へ戻ると、「僕」は大学の親友、倉田と派手に遊ぶようになった。それまでの童貞じみた遊びを止めてしまい、「僕」は藤井から教わったことを、倉田に教え込むことによって、快感を覚えるようになった。
しかし、ある日突然、藤井が「僕」と倉田のところへやって来る。倉田が藤井を知ったことで、「僕」が藤井の真似をしていたに過ぎなかったことが倉田にバレてしまう。倉田を何とか見返してやろうと思った「僕」は、「切り札」として「河向うの私娼窟」(永井荷風が「濹東綺譚」で描いた、東向島の売春街「玉の井」)に二人を連れて行った。しかし「僕」だけ警官に捕まってしまい、かえって仲間内での地位を失墜させてしまった。
藤井が再び京都に帰ってから、「僕」と倉田はそろって藤井に手紙を送りあった。そして、少しでも藤井に好かれようと、互いに懸命に競い合った。しかし、そんな「僕」たちの周囲で、日本は戦争に向かい始めていた。怠けているような学生たちは、憲兵に見つけられると、しょっ引かれるようになった。
そんな中、藤井は学校から退学を命じられてしまう。そして、故郷の朝鮮へ帰ることになってしまった。それを知った僕の心境は、大いに変わってしまった。「僕」は、彼のようにはなるまいと思うようになった―――
この作品の主人公「僕」は、心に劣等感を抱いている。自分には度胸が無い、女を知らない・・・。それが藤井という男の真似をすることによって、自分が劣等感を克服した別の人間に生まれ変われると信じたのだろう。だがしかし、生まれ変われるはずの「別の人間」というのは、覚めた目で見れば、大した人間では無かった。
こういうことは、おそらく誰もが経験することでは無いだろうか。自分の劣等感を埋めようと、必死に違う人間になろうとする。そして、少しでも優越感を感じようと、下らないことで意地を張り合ったりする。その思いは、本能的で直感的なものだ。そこには冷静な視点が欠けている。だがしかし、人間はいつも冷静に自分の行動を見つめることは出来ないものだ。他人の眼からすれば馬鹿げたことを、変に真面目になって取り組んでいることは、誰にだってあるように思う。
「陰気な愉しみ」は、戦後になってからの安岡氏がモデルとなっている。
病気になって軍隊から離脱した「私」は、それだけの理由で役所から災害給与という名目で金をもらうことが出来る。大して働いてもいないのに金を受け取っている自分が、「私」はとてもやましい存在に思えた。それでも「私」は、自ら役所に金をもらいに行くことを止めようとしない。それが「私」の「陰気な愉しみ」だった―――
この作品では、劣等感に苛まれる主人公の妄想や、下らないことで優越感を見出そうとする卑しさが全面に描かれている。
この小説を読んでふと気付いたのは、「幸せ恐怖症」というべき性癖だ。普段から多大なる劣等感を抱いている人は、自分が何らかの幸運に恵まれそうになった時、「いや、自分はそういう幸運に恵まれるような人間じゃない」と思って、それを避けてしまう。幸運だと思ってすがりついたことが、自分を裏切って不幸を導くかもしれないからだ。それだったら、最初から幸運だと思ったことに近づかない方がいい、そうすれば自分を傷つけずに済む、ということだ。むしろ、自分が不幸であることを再確認している方が、かえって自分をそれ以上に傷つけない、という訳だ。
主人公の「陰気な愉しみ」とは、こういう不幸の再確認のことかもしれない。