島田雅彦 「優しいサヨクのための嬉遊曲」 ――― 第89回(昭和58年)芥川賞候補作品

 島田雅彦は、純文学界では今や巨匠としての待遇を受けている。純文学好きでありながら彼を知らないというのは、「モグリ」であるとの誹りを受けても止む無いような状況だ。
 しかしその一方、島田氏の一般の知名度は如何ほどであろう?恐らく、殆どの人が知らないのではないだろうか。かく言う私も、つい最近まで島田氏の名を知らなかった。最初に名前を知った時も、宗教学者の島田裕巳と混同してしまったほどだ。まして自ら「サヨク」と名乗っているのだから、「少々危ない人ではないか」と思ってしまったくらいである。
 その後インターネットで色々調べた結果、やっと氏の現在の「純文学界の巨匠」ぶりが分かって来た。ではそんな氏がデビューした時の作品、「優しいサヨクのための嬉遊曲」はどんな作品だったのだろうか。

「へぇ、面白いねぇ」
 読み始めてまず私はそう思った。
 次の文章を読んだからだ。

 かつて、千鳥は彼女と五秒間、視線を結び合った。彼女は向いのベンチに坐って空気を見ていた。彼は本のページに固定していた目をたまたま彼女の方へ向けた。遊んでいた彼女の目も照準を彼に向けた。この五秒間は夫婦生活に匹敵するほどの意味を持っていた。六秒目には離婚してしまったのだが。(本文より)

 これは主人公の千鳥が「オーケストラ団員である彼女」であるみどりとたまたま目が合って、みどりに一目惚れしたことを表したシーンであるが、普通の小説はこんな書き方をしないだろう。少なくとも、「空気を見ていた」とか、「遊んでいた彼女の目」とか、「照準」といった語句は使わないだろう。まして目が合った刹那のことを「夫婦生活」と呼び、目をそらしてしまったことを「離婚」というのである。しかし、たまたま目が合った女性に一目惚れした経験のある男性なら、その時の心境が非常によく表現されていると思うだろう。
 このような文章表現は非常に危険であり、書くときには細心の注意を払う必要がある。独特の表現を試みようとして書いてはみたものの、出来上がった文章が非常にわざとらしくなって、滑稽じみた感じになってしまう恐れがあるからだ。「生兵法は怪我のもと」という訳だ。しかし島田氏のこの文章、ユーモアやウィットは感じられても、稚拙さや滑稽さは全く感じられない。むしろ、この一節で氏の文章スタイルをきっちり読み手にアピールしている。なぜ氏の場合はこのようなことが出来るのかというと、それは「才能」というほか理由が見付からない。

 さて読み終わった。
 小説としては面白かったと思う。上記に書いたような島田氏特有の文体が浮遊感と虚構性を演出しており、それが「学生グループによる社会主義の民主化運動」サークルという設定をユーモラスに描くことに成功している。千鳥がみどりを何とか口説こうと四苦八苦するシーンも、甘い青春らしさが漂っていてなかなかよかった。

 社会主義にカッコよさを見出して、なんとなく惹かれていくうちに、市民運動にまで手を出してしまう学生たち。しかし彼らは別にソ連に住んでいる訳でもないので、差し迫った危機感を抱いてはいない。しかも、全共闘と同じようにラディカルな運動をやっても無駄だし、格好悪いということも分かっている。だから彼らは、サハロフの絵を描いたバッジを売ったりすることで、社会主義を一つのファッションとして人々に普及させていこうとしている。言うなれば、他のクラブやサークルが趣味の範囲でスポーツや音楽に励むのと同じようなノリで左翼運動を行っているのだ。そんな「優しいサヨク」たちがやっていることは、単なるパフォーマンスの域を脱しておらず、なんらの実効性も有していない。左翼運動の「ママゴト」にしか過ぎないのである。

「理屈だけで人間を幸せにすることは出来ない。人間に本当の幸せをもたらすのは、理屈を超えた愛だ」
 これまで数多くの小説作品が到ったテーマと同様に、この「優しいサヨクのための嬉遊曲」も同じ結論に到っている。
 この作品が評価できる点の一つは、単に「ママゴトの左翼運動からの脱却」という話に終わらせず、あらゆる「理不尽」な「権力」に対峙するために必要なエネルギーは愛である、ということを説いていることだろう。そのことを島田氏は、シリアスに迫った作風ではなしに、ユーモアと浮遊感を交えて読み手に提示しているのである。

 と、ここまで書いてはみたものの、この作品に欠陥が無い訳ではない。読みながらずっと不可解であったのは、なぜ学生たちがソ連の反体制運動に興味を惹かれたか、ということである。なぜ「社会に変化を起こ」そうと考えているかである。この点をもう少しキッチリ書いてもよかったのではないだろうか。単なるファッションとして興味を惹かれたというにしても、惹かれたのなら惹かれたなりの理由があったはずだ。これまでの人生に何らかの経験があって、その時に抱いた気持ちと、ソ連の反体制運動の思想とが、どこかでリンクしていたはずである。それを十分に表現していないために、読み手は「全共闘世代でもないのに、なぜ彼らはこんな運動に精を出しているのだろう?」と不可解に思ってしまう。まして、社会主義がもはや滅亡寸前の現代にあっては、なおさらのことだ。
 恐らくこのような書きぶりとなってしまったのは、ストレートに読み手に迫るような作風よりも、読み手の感情に何となく触れるような書き方のほうが、読み手の共感を得られる、と島田氏が考えたからであろう。そう、結局のところ島田氏こそが、サハロフのバッジを作って売るような「優しいサヨク」なのである。
 今や純文学界では巨匠となった島田氏。しかし、一般市民の知名度はもう一つの島田氏。氏の端正な顔立ちを帯に付けて著書を売る「優しいサヨク」運動は、今後も何らかの成果を得ることが出来るだろうか?

お楽しみ頂けましたか?

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